■日本文学・日本語学・日本史学と上方文化本の図書出版


太宰治研究19



目次


〔作品とその生成要素〕
「愛と美について」から「走れメロス」まで

「愛と美について」と高木貞治述『過度期ノ数学』 出原隆俊
作品とその生成要素―「兄たち」と「青んぼ」― 川崎和啓
「俗天使」とミケランジェロの聖母 須田千里
「女人訓戒」と辰野隆『仏蘭西文学の話』―ミソジニーの強度― 中村三春
作者の決闘―「女の決闘」における翻訳/翻案 坪井秀人
「駈込み訴へ」と聖書―「人間イエス」の系譜― 服部康喜
「走れメロス」と小栗孝則訳『新編シラー詩抄』 奥村 淳

〔作品論I〕
「椿屋のさつちやん」の誕生―太宰治「ヴィヨンの妻」における詩的創造 水野 尚
「桜桃」論―占領下の〈革命〉 内海紀子

〔作品論II〕
随想「古典龍頭蛇尾」から「三月三十日」まで

「古典龍頭蛇尾」論―文芸懇話会における「日本精神」なるものへの揶揄 尾西康充
こわい顔して 創作余談(後に「創作余談」と改題) 細川正義
太宰治「他人に語る」と砂子屋書房の「文筆」 瀬崎圭二/自意識の皮膜―「富士に就いて」の〈私〉― 川島秀一
「当選の日」論―生活者と作家の相克 小菅健一
「正直ノオト」と創作余談への嫌悪―再考・太宰治と志賀直哉 大東和重
「浪曼派哲学」を求める心―太宰治の「ラロシフコー」をめぐって 水野 尚
「『人間キリスト記』その他」について 島 達夫
小説「市井喧争」論―小説「善蔵を思ふ」の裏バージョンとして― 秋枝美保
「困惑の弁」と山椒魚の寓意性―「黄村先生言行録」に見る高尚と卑俗 名波弘彰
太宰治のアイロニー―「心の王者」論 佐藤裕子
反転する〈健闘〉―太宰治「このごろ」論 青山英正
「金木の旧正月」 木下 巽
太宰治「鬱屈禍」論―鬱屈する芸術家像 山中剛史
「酒ぎらひ」論 押野武志
「無趣味」 増山初子
「作家の像」というフィクション 鳥羽耕史
「義務」という観念 上田正行
太宰治「三月三十日」―その諸相― 北原泰邦

〔資料紹介〕
「良記暦」の太宰治 池田 亨
太宰治ビブリオグラフィー 研究参考書 二〇〇一補遺 二〇〇六 山内祥史

〔作品評釈〕
走れメロス」評釈(五) 近藤周吾
「葉桜と魔笛」評釈(三) 三谷憲正



編集後記

 
「太宰治研究」第一九輯では、「作品とその生成要素」「作品論機廖嶌酩箆性供廖峪駑曽匆陝廖嶌酩壁昭瓠廚慮渕鑪爐旅討魴任欧拭
 「作品とその生成要素」欄には、前輯に続き、一九三九(昭和一四)年五月二〇日付発表の「愛と美について」から一九四〇(昭和一五)年五月一日付発表の「走れメロス」までの七篇の作品とその生成要素についての論究を掲げた。近代文学研究家として著名な方々が、各々に真摯な力篇を寄せて下さった。諸氏に感謝したい。七篇の作品について、問い直され掘り下げ深められ広げられた論考によって、向後貴重な示唆が得られるものと信じる。なお、須田千里氏は「「俗天使」とミケランジェロの聖母」で、私が一九七八(昭和五三)年一〇月二三日に鰭崎潤氏宅を訪問した際、偶々所持していた手帖に乱雑に書き写し、私自身にも読み辛くなっていた画集名を、明らかにしてくれた。須田千里氏に感謝の意を表しておきたい。その時、鰭崎潤氏は、無教会的な画集を携えて太宰治の家を訪れたのは、一九四二(昭和一七)年三月頃までであった、といわれ、一九四二(昭和一七)年四月には、東京を離れて長野県に就職し、以後、帰京した時に偶に太宰治に�Aう事はあったけれど、画集を携えて彼の家を訪れるような事はなかった、といわれていた。種々検証したが、鰭崎潤氏の言に矛盾する点はなかった。須田千里氏が紹介されているように、翌年「クレセント」第四号(一九七九年六月一四日付発行)が上梓され、鰭崎潤氏と水谷昭夫氏との対談記録「太宰治とキリスト教」が掲載された。その中で鰭崎潤氏は、グリューネヴァルトの画集購入の時を「戦争の終わる二年ぐらい前かな」と曖昧にいわれ、それを受けて水谷昭夫氏が「昭和十八年ぐらいですね」と「年」を明示された。話が就職の事に及んだ時、鰭崎潤氏は「僕は昭和十八年かに長野県に就職したのですよ」といわれている。就職の時は画集購入の時より後であるという、先後関係に配慮された発言であったのだろう。この対談記録を読んだ時、鰭崎潤氏が太宰治に画集を見せた年月を明確にしておく必要があると考え、その後に発表の拙稿「年譜」には、意識的に「昭和十七年三月頃まで」と書き入れ続けてきた。鰭崎潤氏が「長野県に就職」する際県知事宛提出の「発令希望年月日」を記した書類の日付も、知友人五人が集って鰭崎潤氏の送別会を開催した日も、鰭崎潤氏が長野県に移住し「発令」に従って長野県に「着任」した日も、すべて一九四二(昭和一七)年四月であった。その後、夏休等で帰京の折、太宰治宅を訪れてはいるが、「旅に出て」「不在中」で「�Aへず」という時が多かったようだ。一九四三(昭和一八)年三月、鰭崎潤氏結婚の翌日、祝いの会で鰭崎潤氏は太宰治他二人の友人と「置酒」を共にしている。結婚して鰭崎潤氏は、長野県に新居を構えたようだ。一九四四(昭和一九)年六月「歓呼の声に送られて」応召出征するが、翌月除隊となり、以後一九四五(昭和二〇)年一二月まで、長野県に勤務している。須田千里氏の言及に肖って記したこれに関連する事項については、既に送稿してあって軈て上梓されるであろう、拙著にも多少記入しておいた。
 「作品論機徑鵑砲蓮⊃緻郛飴瓩痢屮凜ヨンの妻」論と内海紀子氏の「桜桃」論とを掲げた。水野尚氏は、フランス文学の専攻でネルヴァルの研究で博士の学位を取得され、その論考はフランスで上梓されたと聞いている。予てから日本近代文学にも強い関心を持っておられた。日本ロマン主義研究会の代表も務めておられる。内海紀子氏は太宰治の研究家として知られている。管見に入った範囲でも、「国文」第一〇〇号(二〇〇四年二月一八日付発行)「日本近代文学」第七一集(二〇〇四年一〇月一五日付発行)『新世紀 太宰治』(双文社出版、二〇〇九年六月一九日付発行)「太宰治スタディーズ」第三号(二〇一〇年六月一四日付発行)等に、「皮膚と心」「女生徒」「雪の夜の話」「道化の華」等の諸作品についての論究を発表されている。津島美知子夫人の出身校の後輩として、また女性としての「桜桃」についての論は、興味深い。この二つの論考を以て、第一輯以来連載してきた太宰治の創作の「作品論」は、「最後の太閤」から「家庭の幸福」までの全一八二篇についての一八三氏の一八五篇を掲載してきた事になる。和泉書院を初めとし多くの方々のご協力に、改めて感謝の意を表しておきたい。
 「作品論供徑鵑蓮第一八輯に続き「随想「古典龍頭蛇尾」から「三月三十日」まで」とし、一九篇の随想作品論を掲げた。一九三六(昭和一一)年五月一日付から一九四〇(昭和一五)年四月一日付までに発表の随想で、「作品とその生成要素」欄で採り上げた「作品」と重なる時期に発表された随想作品論である。創作集でいえば『皮膚と心』『女の決闘』までの時代ということになろうか。気鋭の一九氏の方々が、これまで単独で論じられることのなかったこれら随想について、それぞれに真摯に論究して下さった。様々な新しい指摘が見られ、新しい発見が提示されている。太宰治作品再検討の手がかりとなる、貴重な論考が多いようだ。
 「資料紹介」欄には、池田亨氏の「「良記暦」の太宰治」を掲げた。青森県立美術館で、二〇〇九年七月一一日から九月六日までの間開催された「生誕一〇〇年記念/太宰と美術/故郷と自画像」の企画展において、「良記暦」が全冊展示された。池田亨氏に配慮戴き、一部披見させて貰ったが、太宰治年譜でも種々修正すべき箇処があることを発見した、貴重な日録である。先の企画展では、池田亨氏の編集によって、大冊の図録『太宰治と美術』も発行された。池田亨氏には他にも「太宰と故郷1〜3」(「東奥日報」二〇〇九年七月二二日〜二四日)の連載や『芸術の青森』(青森県立美術館、二〇一一年一月二二日付発行)などの稿がある。「太宰治ビブリオグラフィー」は、「研究参考書」の「二〇〇一補遺 二〇〇六」とした。
 「作品評釈」欄の近藤周吾氏の「「走れメロス」評釈(五)」は、「シラクスの市」を目差して走るメロスにフイロストラトスの「声が、風と共に聞え」る場面から結尾までの終結部の評釈である。また三谷憲正氏の「「葉桜と魔笛」評釈(三)」は、「私」が「声を立てて読」む妹宛の手紙の内容から結尾までの終結部の評釈である。共にこの第一九輯で、完結した。精緻な調査に基づいた労作を寄せて下さった二氏に感謝したい。三谷憲正氏の言を借りれば、「走れメロス」も「葉桜と魔笛」も「太宰文学の中で「美談」の系譜に属する作品」である。そのためか、中学や高校の教科書にも採録されることが多い。教壇でこれら作品について教授される方々にとっても、二氏の評釈は貴重な示唆を与えてくれるに違いない。
 想い返せば、第一輯を上梓したのは、一九九四年六月であった。翌一九九五年一月阪神・淡路大震災を体験したが、一六年後の二〇一一年三月東日本大震災が発生し、多くの方々が被害に遭遇されている。一六年前の苦難の日々を想い起こし、東北関東地方の方々の体験されている日々に想いを馳せている。これまでの「太宰治研究」への寄稿者の中にもおられるであろう、被災者に、心よりお見舞いを申し上げる。(後略)(山内祥史)
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