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太宰治研究3



目次


〈特輯〉太宰治の思い出

〔回想記〕
特輯・太宰治の想い出
幼き日の太宰治 木立民五郎
太宰治の横顔 久保 喬
戦後五十年、太宰治 林富士馬
私の見た太宰治―思いだすままに 村松定孝
旧制新潟高校と太宰治―初めての講演 伊狩 章
太宰さんの思い出 森田実歳
戦時下の太宰治と私 石澤深美
風貌 桂 英澄
太宰治断章 堤 重久
在りし日の太宰治 木村久邇典
往事渺々 矢代静一
林檎籠図かなし―太宰治の思い出 小野才八郎
往時を想う 菊田義孝
藤波の影 亀島貞夫
モデルの真贋 野平健一

〔原稿写真〕
 「メリイクリスマス」原稿(全文) 太宰 治
「メリイクリスマス」の素材と原稿とについて 山内祥史

〔作品論〕
「狂言の神」試論―〈生活の探求〉、もしくは〈反意〉の絵模様 三谷憲正
「二十世紀旗手」論 鎌田廣己

〔資料紹介〕
太宰治全集未収書簡―小館善四郎、小館保宛 小山内時雄
中河与一宛書簡一通 細江 光
大森隆夫、早川徳治、南風書房宛書簡三通 山内祥史
偽造太宰治書簡 細江光

〔伝記考証〕
芥川龍之介と青森―太宰治は芥川の講演を聞いたか 伊藤榮一




編集後記

 
 「太宰治研究」第三輯には、「回想記」「作品論」「原稿写真」「資料紹介」「伝記考証」の五種の文章を掲げた。

 「回想記」は、「特輯・太宰治の想い出」とし、太宰治生前の友人知己に寄稿を依頼して得た、一五篇の回想記を掲げた。
 木立民五郎氏と太宰治とが相識ったのは、一九四五(昭和二〇)年九月以降のことと思われる。小野正文氏の「木立民五郎氏を憶う」によれば、木立民五郎氏は、「青森中学校で太宰の後輩」であり、「太宰の五年下ぐらい」で、「疎開中の太宰と親しかった」という。金木町太宰研究会の会長を務め、金木桜桃忌の世話役もされていたが、一九九四年一〇月一日に急逝された。著書『太宰との接点』のほか、「太宰治の思い出」「『ユーモア』を語る 太宰治」「太宰治が語った筆名の由来」などの諸稿がある。ここに掲げた「幼き日の太宰治」は、一九九一年七月に、甲府市の太宰治研究家橘田茂樹氏から送付されてきて、預かっていたものだ。木立いち夫人の了解をえて、ここに掲げた。
 久保喬氏が、古谷綱武の紹介によって太宰治と相識ったのは、一九三三(昭和八)年四月上旬である。久保喬氏は、児童文学者として著名であったが、一九八一年、「太宰治の青春碑」を「群像」に発表して、一躍太宰治の友人としても有名になった。著書『太宰治の青春像』のほか、「処女出版『晩年』のころ」「太宰文学の両極性」などの稿があって、『晩年』時代の太宰治について貴重な証言をされている。
 林富士馬氏が、佐藤春夫の紹介によって太宰治と相識ったのは、一九三五(昭和一〇)年九月中旬のことかと思われる。旺文社文庫版の『パンドラの匣』『走れメロス・新樹の言葉』『人間失格』『お伽草紙』などの「解説」や「代表作品解題」の稿がある。

 村松定孝氏が、井伏鱒二の紹介状を持って初めて太宰治を訪ねられたのは、一九三七(昭和一二)年かと思われる。村松氏は、上智大教授や昭和女子大教授を歴任された、日本近代文学研究家だ。太宰治逝去直後に発表された「太宰治の地点―太宰治 死」のほか、「太宰治の『晩年』をめぐって」「太宰治の女性観」『斜陽・人間失格』の「解題」「死とその認定―太宰治他殺説をめぐって―」「名文鑑賞 太宰治の『斜陽』」「太宰治と中国文学」『あかつき名作館日本文学シリーズ10』の「作家と作品」「第一回芥川賞・直木賞とその波紋」「愁無くして成らんや―追憶の太宰治―」など、太宰治に関する文章も多い。しかし、太宰治についての氏の回想記としては、ここに掲げた「私の見た太宰治」がもっともまとまったものであろう。
 伊狩章氏も、弘前大勤務を経て、長年新潟大教授を勤められた日本近代文学の研究家、とくに硯友社文学研究の第一人者として知られている。伊狩氏と太宰治との関わりは、あまり知られていなかったが、伊狩氏が、「the座」の「特集太宰治」に「新進作家としての講演」を掲げられて、広く知られることとなった。伊狩氏が、太宰治の講演を聴かれ、太宰治を囲んだ座談会に出席され、太宰治と夕食会で席を共にされたのは、一九四〇(昭和一五)年一一月一六日のことである。
 森田実歳氏が、太宰治と初めて親しく接したのは、「昭和一五年の歳末か、一六年の一、二月のころであった」という。森田氏も、日本近代文学研究家で、清泉女子大教授を勤めておられた。『三木露風研究』『日本文学試論』などの労作によって知られる。「太宰治全集月報」にも「昭和十五、六年の太宰さん」を連載されていた。「散華」の登場人物三田循司に関する回想は貴重であろう。
 石澤深美氏は、ドイツ文学者。堤重久氏の親戚に当たる。その関係で、一九四二(昭和一七)年四月に、太宰治、堤重久、桂英澄、池田正憲らと共に奥多摩に遊んだ。それから、太宰治を訪ねるようになったという。津島修治の「未発表資料高校時代の英作文“”KIMONO”ほか」の訳を、審美社版「太宰治研究」に掲げておられた。ここに掲載した「戦時下の太宰治と私」は、済生会発行の「済生」一九八六年六月号に発表された「私と太宰治」に手を加えられたものである。
 桂英澄氏が太宰治と相識ったのも、一九四二(昭和一七)年四月、奥多摩に遊んだときであろう。桂氏の太宰治に関する文章は夥しい。著書『太宰治と津軽路』『桜桃忌の三十二年』、編著『太宰治研究IIその回想』のほか、「箱根の太宰治」「太宰治と富士」「暗冥に光を」「桜桃忌」「つつじの絵」「戦時下の一夜―太宰治の思い出」「約束は守るべし」「心の糧を求めて―桜桃忌と近ごろの太宰フアン気質―」「作家の死―太宰治の場合―」「太宰治の死」「名作『津軽』の跡を訪ねて」「矛盾の中をのたうつ―太宰を語る―」「箱根ホテルの太宰さん」「太宰治と森鴎外」「太宰治における抒情のあり方」「わが師太宰治  愛の遍歴」「太宰文学の現代性」「太宰治と大宮」「太宰治と乃木将軍」「入隊前夜―太宰治の思い出―」などがある。
 堤重久氏が、三鷹に太宰治を訪ねられたのは、一九四〇(昭和一五)年一二月であった。堤氏は、ドイツ文学者でもと京都産業大教授。堤氏の太宰治に関する文章には、著書『太宰治との七年間』『恋と革命―評伝太宰治―』のほか、「太宰先生の死」「歳月」「三鷹訪問」「『正義と微笑』の背景」「太宰治百選」「太宰治と外国文学」「再会と訣別」「在りし日の太宰治」などがある。ここに掲載した「太宰治断章」は、「東京新聞(夕刊)」一九九二年一〇月三日から一二月一二日までに連載された「在りし日の太宰治」の一部に「新原稿を追加」して成ったものだ。
 木村久邇典氏が太宰治を金木に訪れて逢われたのは、一九四六(昭和二一)年二月一七、八日ごろであろうという。木村氏は、山本周五郎の研究家として著名で、別府大教授、青山学院女子短大教授などを歴任されている。著書『太宰治と私』のほか、「宿命の創造」「話術の天才」「太宰治と安吾・作之助」「太宰治の思い出」「続在りし日の太宰治」など、太宰治についての文章も多い。ここに掲載した「在りし日の太宰治」は、「東京新聞(夕刊)」一九九二年一二月一九日から一九九三年四月三日までに連載された「続在りし日の太宰治」から抄録したものである。
 矢代静一氏は、一九四六(昭和二一)年師走の一夜、三島由紀夫らとともに、太宰治と逢われたようだ。また、「春の枯葉」の上演許可を得るために三鷹に太宰治を訪ねられている。矢代氏は、著名な劇作家だが、著書『含羞の人―私の太宰治』のほか、「亡霊失格」「太宰治―引用句―」「三島と太宰」「恍惚の旗手たち」「太宰にイカレタ」「こころの書から『葉』」「恋と革命」「子供より親が大事―桜桃」など、太宰治に関する文章も多い。
 小野才八郎氏が、太宰治を金木の生家に訪ねられたのは、一九四六(昭和二一)年一一月ごろだという。太宰治の死の直後にも、「さようなら―あの日の太宰先生」を発表されている。そののち、『太宰治(近代文学鑑賞講座第一九巻)』に「太宰治参考文献目録」「年譜と同時代史」を掲げ、角川文庫版の『女生徒』『晩年』『ろまん燈籠他六篇』に「主要参考文献・年譜」を、講談社文庫の『人間失格』『斜陽』『走れメロス・女生徒・富嶽百景』に「年譜」を掲げられているほか、「黄村先生外伝」「『書』の思い出」「桜桃忌(東京)のこと」「四〇回を迎えた桜桃忌」などの稿を発表されている。
 菊田義孝氏が、初めて三鷹の家に太宰治を訪ねられたのは、一九四一(昭和一六)年七、八月頃かと思われる。当時菊田氏は、高山書院の編輯部に勤めておられた。菊田氏の太宰治に関する文章は夥しい。そのほとんどは、著書『太宰治と罪の問題』『私の太宰治』『終末の予見者太宰治』『太宰治の弱さの気品』『人間脱出 太宰治論』に収載されているようだ。最近の文章に、「エホバ、風の便り…」「語りものになった『女賊』」「木山捷平論ノート―木山捷平と太宰治」などがある。
 亀島貞夫氏は、最初の『太宰治全集』である八雲書店版の編輯者であった。その話の進められた一九四七(昭和二二)年一〇月ごろから、太宰治としばしば逢っておられたと思われる。山崎富栄の日記にも、一九四七(昭和二二)年一一月二二日以後亀島氏の名がしばしば記されていて、死の直前まで太宰治との接触の多かったことが、うかがえる。そのわりには、亀島氏の太宰治に関する文章は、多く見られない。氏の考えに基づくのであろう。管見に入っているのは、死の直後の「池水は濁りに濁り」のほか、「死後を悼む」「太宰治との別れと死」くらいだ。その意味でも、ここに掲げた稿は、貴重である。
 野平健一氏は、太宰治が戦後上京してきた当時、「新潮」編輯部員であった。その野平氏が、担当編輯員として太宰治に逢われたのは、一九四六(昭和二一)年一一月中旬のことであったという。以後、太宰治にもっとも可愛がられた編輯者の一人であって、太宰治の歿後に書かれた、太宰治に関する文章は一三篇に及ぶ。それらの文章は、『矢来町半世紀』にまとめて収録されている。ここに収められていない文章で管見に入ったのは、「見事な口述原稿」一篇である。なお、写真に見られる「春風や/麦の中ゆく/水の音/録木節句」の「木節」は、「木導」のあやまりである。「私の好きな詩と言葉」(「文芸」一九四二年八月号)のアンケートでは、「春風や麦の中ゆく水の音(木導)」と回答しているから、その後、記憶があいまいになったのであろうか。

 「原稿写真」では、太宰治の戦後上京後の第一作「メリイクリスマス」の原稿を、写真で掲げることができた。著作権所有者津島美知子氏と原稿所蔵者菊田義孝氏とのご厚意による。ここに記して謝意を表したい。太宰治の作品で、原稿が写真で公にされているのは、「人間失格」だが、それも作品のすべてではない。一作品の原稿の全体が写真で公にされるのは、この「メリイクリスマス」が最初であろう。テキスト・クリティックなどで、研究者の参考になればさいわいである。

 「作品論」としては、二篇の論考を掲げた。
 三谷憲正氏には、「太宰治小論―『如是我聞』への道程」「太宰治の時代と『十五年間』」「太宰治の『お伽草紙』」「『人間失格』論」「『富嶽百景』論」「『駈込み訴へ』論」「太宰治『葉』に関する若干の補正」「『走れメロス』試論」などの論考があり、鎌田廣己氏には、「『人間失格』へのある視点の試み」「『走れメロス』試論」「語り手の愛―太宰治『右大臣実朝』」「『ロマネスク』ということ―太宰治『ロマネスク』論として」「『われにその値なし』―太宰治『思ひ出』試論として―」「太宰治『道化の華』論」などの論考がある。ともに新進気鋭の研究家として注目されている。

 「資料紹介」としては、四篇の文章を掲げた。
 小山内時雄氏「太宰治全集未収書簡―小館善四郎、小館保宛―」に紹介されているのは、青森県近代文学館の「特別企画展 太宰治」で、はじめて公開されたもの。展示館の館長である小山内氏は、弘前大名誉教授で、『葛西善蔵全集』を編纂された、日本近代文学研究家である。詳細な「註」は貴重であろう。一挙に九通の書簡を公にされた功績は、多大である。
 細江光氏「中河与一宛書簡一通」は、細江氏が偽造太宰治書簡を探索されている過程で発見されたと聞いた。細江氏は、谷崎潤一郎の文学の研究で知られた、日本近代文学研究家である。「文芸世紀」の発行兼編輯人でもあった中河与一との関わりを示す、貴重な書簡を紹介された功績は大きい。
 山内祥史「大森隆夫、早川徳治、南風書房宛書簡三通」は、いずれも一九九五年に発行された古書目録の中で発見したものだ。
 細江光氏「偽造太宰治書簡」は、「大方の注意を促す」ために、紹介してもらった。昨年一一月中旬、細江氏から、問題の書簡の写真とこれは偽造ではないかという細江氏の考えの記された書簡とが送られてきて、鑑定を依頼された。写真を一見して、私も、これはまちがいなく偽造だと思ったので、本誌の編輯担当者青木知代氏に話し了解を得て、細江氏に依頼し紹介してもらうことにした。
 「伝記考証」では、寄稿されてきた伊藤榮一氏の「芥川龍之介と青森―太宰治は芥川の講演を聴いたか―」を掲げた。長い歳月をかけて調査された結果を、まとめられたものであろう。本誌に掲げた林富士馬氏の稿にも指摘されているように、太宰治は、芥川龍之介の強い影響下で創作活動を開始した。この芥川龍之介との問題に関連して、私も、「国文学解釈と鑑賞」一九九三年六月号の「鼎談評伝太宰治の問題点」で、つぎのように発言したことがある。

  昭和二年五月二十一日に改造社主催の現代日本文学全集刊行記念講演会が青森で開かれています。秋田雨雀、片岡鉄平がその講演のために青森市を訪れています。ところがその日たまたま芥川龍之介も北海道の講演旅行からの帰りに青森に立ち寄り、新潟に講演に行くためにちょっと時間待ちをしないといけないので、秋田雨雀の話を聞こうと言って楽屋で話を聞いていたんです。すると阿部泰雄さん、竹内俊吉さんなどから改造社の比賀春潮を通してぜひ出演して欲しいと言われて、急遽出て「漱石先生の思出」という題で話をしました。その時、津島修治はそこに友人と行って聞いていたと言われています。私も「年譜」にそのように書いておきましたが、その辺はもう一度洗い直してみる必要があると思います。そうすると、その直後の七月二十四日に芥川龍之介の自殺があったけど、それによって受けた衝撃度も、実際に、姿を直接に見た場合と、見ていなかった場合とでは衝撃度も違うでしょうから、その辺も含めて明らかにして欲しいと思っています。
 
伊藤氏の論考は、この問題点を論じた、注目すべき伝記考証である。

 第三輯を、予定通りに発行できたことを欣びたい。ご協力いただいた執筆者各位に、お礼を申しあげる。(後略)(山内祥史)
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